近藤勇昌宜(こんどういさみ まさよし)
天保5年(1836)、武蔵国多摩郡上石原村の富農、宮川久次郎とみねの三男として誕生する。 幼名は勝次郎。16歳のとき勝太、安政2年(1855)に勇と改名している。 勇は幼い頃から「三国志」や「水滸伝」、楠木正成などの武功談を好んでおり、庭先の道場で毎日竹刀を振っていたという。 ガキ大将という言葉が当てはまるような少年で、木の上に登っては人に悪戯をして追いかけまわされていたらしい。そんなヤンチャ少年だった勇だが、 局長となった勇の隊士からの信頼は厚い。それを考えると、幼い頃から人に慕われるような性格だったのかもしれない。 勇には村中にその評判を広めたという逸話が残っている。 15歳の時、父久次郎が留守の夜を狙って盗賊が忍び込んできた。盗賊に気づいた兄粂次郎(くめじろう)はすぐさま捕まえようとするが、 勇が「盗賊は入って来たばかりで気が立っている。盗みを終えて逃げるときが油断している」というようなことを言い、その通りに対処すると驚いた盗賊は盗んだ荷物を全て おいて逃げて行ったという。粂次郎は逃げた盗賊を追いかけようしたが、勇がそれを諭して見事盗賊を退けた。 近藤勇(当時宮川勝五郎)、若干15歳。この評判を聞いて、跡取りの居なかった天然理心流3代目宗家近藤周助は勇を養子に迎えることを決めたと言われている。 勇は15歳の時に天然理心流近藤周助の道場「試衛館」に入門。8ヶ月後には目録を与えられるという凄腕の持ち主だった。元新選組隊士の阿部十郎の談話にも「勇は百姓の子で ありますけれども、なかなか此の事(剣術)にかけましては熱心なものでございます。・・・榊原鍵吉(けんきち)よりは近藤勇の方が上だろうと云ふのでございます (『史談会速記録』)」と記されている。この榊原という人物は、幕末から明治にかけての剣客(幕臣)で直心影流(じきしんかげりゅう)の使い手である。 「最後の剣客」と呼ばれ、死ぬまで髷を解かず道場も閉じなかった。そんな人物よりも上だと評されたのだから、勇の剣術の腕は余程のものであったと想像するのは難しく ないだろう。 嘉永2年(1865)、勇は周助の生家である島崎家の養子になった後周助の養子となる。勇16歳のときである。このとき「島崎勝太」と改名する。 養子となった勇は剣術の力をメキメキとつけて、文久元年(1861)28歳の時に4代目宗家を襲名。のち新選組隊士として共に活躍する土方歳三、沖田総司をはじめ山南敬助、 永倉新八、藤堂平助、原田左之助らと共に剣術の稽古に励んでいた。 その前年の万延元年(1860)に勇は松井常を娶っている。常は御世辞にも器量がよいといえず、だからこそ勇は常を娶ったらしい。美しい妻をもったら門人たちを惑わして しまうかもしれないと心配したのだという。常は文久2年(1862)に長女たまを出産している。 文久3年(1863)、幕府による浪士組募集の報が試衛館にももたらされ、勇は門人たちと上洛することを決意した。これは、勇たちにとって大きなチャンスだったのである。 過去に、幕府は講武所の剣術教授を募ったことがある。勇はこれに選ばれそうだったのだが、彼が農民の出身だからであろうか採用されなかったのである。 そんな辛い経験もある彼だから、この上洛には強い思いが掛けられていたことだろう。これは私の想像するところであるが、近藤勇という男は物凄く真面目で自分が決めた ことには一直線に走ってしまうのではないだろうか。だからこそ、彼は最期の最期まで誇りを捨てなかったのだと思う。 もしかしたら、幕府が自分たちの対偶に困り、捨て駒のように使われていることもわかっていたのかもしれない。 わかっていたからこそ、最期まで幕府を支えようと頑張っていたのかもしれない。 京都に残留した近藤一派と芹沢一派は、京都守護職御預の壬生浪士組を結成。新選組の名を拝命するのは文久3年(1863)禁門の変の後である。その後芹沢一派を粛清し、局長 一人を置いた新体制で新選組は再始動。そして、元治元年(1864)6月5日の池田屋事件で新選組の名は京都中に知れ渡るのである。 この池田屋事件、相手方の浪士は20人以上いたそうだが、最初に斬りこんだ新選組隊士は勇を含め4人と言われている(異説あり※1)。その中でも勇は先陣を切ったそうで、 これが彼の正義感と勇敢さを物語っている。いくら「忠義を尽くす」と口で言っていても、それを命をかけて行動に移すことはなかなかできることではない。 もちろん、剣の腕にも自信があったのだろう。 この事件をきっかけとして、新選組はさらなる活躍をみせることになる。 慶応元年(1865)、勇は長州訊問使の永井尚志(なおゆき)に随行して広島に下った。勇のほか伊東甲子太郎、山崎烝、武田観柳斎、吉村貫一郎らも随行。新選組隊士は 永井帰京後もそこに留まって引き続き岩国方面の視察も行った。 このように、最初はどこの馬の骨とも知れない浪士組の責任者だった勇だが、次第に新選組局長としてその責任は重く圧し掛かっていく。もはや近藤勇は芋 剣術の宗家(※2)でもただの浪士でもなかったのだ。 その責任の重さ故か、それとも何もできない幕府に対するやりきれない思いからか、原因はわからないか勇は胃を病んでいたと言われている。 慶応3年(1867)、新選組は正式に幕府召し抱えの直参となった。以前にも勇は幕府直参として召しあげられていたのだが、「何もせずに禄を食むわけにはいかない」と 思ったのだろうか、この申し出には応じていない。 その同じ年の12月18日、伏見街道藤森から墨染の付近で高台寺党の残党に狙撃されて右肩を負傷。かなりの深手を負ったそうだが、勇は落馬せずにその場から逃げきった。 しかし、この傷のために慶応4年(1868)1月3日から勃発した鳥羽伏見の戦いでは指揮を執っていない。指揮は全て副長の土方に任せ、勇は大坂城で療養していた。とても 戦に出られる状態ではなかったのである。 このとき治療にあたったのは、新選組の診検医として隊士たちの診検も担っていた幕府御典医松本良順である。 鳥羽伏見の戦いに敗れた新選組は、朝敵の汚名を着せられて江戸に帰還する。まさに「勝てば官軍、負ければ朝敵」であった。新選組と長州の立場が一転してしまったの である。 鳥羽伏見で負けたとき新選組は事実上その体制を維持することが出来ない状態になっていた。ここで多くの隊士の脱走を許してしまったのである。 江戸に戻った勇らは、幕府の命で甲陽鎮撫隊として活動、勇は若年寄格を与えられ大久保剛と名乗る。しかし、甲州勝沼の戦いで再び敗戦。勇は大久保剛から大久保大和と 改称して下総流山に陣を構える。しかし、敵にばれて囲まれてしまう。勇は隊士たちを逃すため自ら敵に捕まった。慶応4年(1868)4月4日のことである。 敵には大久保大和と名乗るが、そこに運悪くも元新選組隊士の加納道之助がいて新選組局長近藤勇であることがわかってしまう。 勇は審問を受けた後、板橋宿の外れの刑場で斬首。切腹は許されなかった。慶応4年(1868)4月25日、享年35歳。 勇の首は板橋の刑場で数日晒された後、火酒に浸して京都にも送られ、閏4月8日三条河原で罪文と共にさらし首にされたという。 その首の行方は現在も不明である。 悲痛な最期を遂げた近藤勇昌宜。農民出身の彼が歴史の表舞台に立ったのは、実力はもちろんのことながら“運”が彼に味方したと言わざるを得ないだろう。 しかし、その“運”は果たして彼の人生を良い方向に導いたかどうか、私たちの知るところではない。 「正しい」ことが必ずしも「正義」と一致するわけではないと、彼が一番痛感したのではないだろうか。 この世で彼が未だ彷徨っていないことを祈るばかりである。 ※1:4人説(近藤、沖田、永倉、藤堂)と5人説(近藤、沖田、永倉、藤堂、奥沢栄助または勇の養子周平)がある。 ※2:幕末四大流派とは違って天然理心流は田舎の芋剣術として馬鹿にされていた面があったようだ。 |