沖田総司藤原房良(おきたそうじ ふじわらかねよし)
天保13年(1842年)奥州白河藩士沖田勝次郎の長男として生まれる(天保15年説もあり)。 出生については6月1日という説があるが、嵐の日に生まれたと言われているだけで真実のほどはわからない。 幼名は惣次郎。総司と名を改めたのは浪士組として上洛するに際して、または近藤勇に惣次郎を略して「そうじ」と呼ばれていたためと言われている。 総司の父勝次郎は白河藩江戸下屋敷で足軽小頭として勤めていたが、総司が幼少のときに他界。その後、長女ミツの婿井上林太郎が家督を継いだ。林太郎は後の新選組隊士 となる井上源三郎と親戚関係にあった。 総司は9歳で試衛館に入門。近藤周助の内弟子として天然理心流を学び始める。総司は剣術に長けていたようで19歳になる前にはすでに免許皆伝、塾頭として門人に稽古を つけたり勇の代わりに出稽古に赴いていた。 通常、天然理心流では免許取得までに約10年を要する。それ以上の時間を要する者も多くいたようだ。総司が入門したのは9歳。免許皆伝までに10年ほどかかっているとはいえ、 当時の総司は大人に比べて体力も筋力も劣る少年であった。そんな少年が19歳という若さで免許皆伝を受けたというのは、やはり持って生まれた才能があったと言うほかないだろう。 北辰一刀流目録の藤堂平助、同じく免許皆伝の山南敬助も総司には歯が立たなかったという。近藤も本気で立ち合えばやられるだろうと言われていたほどである。 文久3年(1863年)将軍家茂の上洛に際して警護のための浪士募集が行われた。試衛館にもこの報はもたらされ、総司たちも上洛する。のち新選組を結成。 総司は幹部隊士として近藤・土方らと共にその中核をなしていた。芹沢鴨暗殺でも刺客として抜擢されるなどその信頼も厚かったようだ。 元治元年(1864年)維新志士による恐ろしい計画が明らかになった。その計画とは、京都一帯を焼き尽くして会津松平容保を殺し天皇を奪いとるというものだった。 この計画を阻止しようと新選組は尽力、それによって多くの維新志士たちは惨殺された。これが世に言う池田屋事件である。このとき池田屋に斬りこんだ隊士は4人とも 5人とも言われているが、その一人に総司はいた。20人の浪士を相手に彼らは激闘する。しかし、ほどなくして総司は病に倒れてしまう。一説には持病の労咳(結核) のために喀血したとも言われているが、これには異論を唱える学者も多くいる。 その後も有力戦力として新選組で活躍。沖田総司は最強の剣客としてその名を天下に轟かせたことだろう。ある者はそのなに恐怖を覚えたかもしれない。だが、その天才剣士は 鳥羽伏見の戦いには参戦していない。労咳に体を蝕まれて戦うことが儘ならない体になっていたのだ。 それでも、総司は新選組隊士として京に残りたかったであろう。今までもそうしてきたように、戦いの第一線に立って戦いたかったのであろう。だが、それは出来なかった。 自分の意思とは反対に体が動かない。仕方なく、総司は近藤に連れられて富士山丸で江戸に帰還。その後は養生に入り戦には一切参戦していない。 総司は笑い上戸で、よく冗談を言う青年だったらしい。壬生寺に子供たちを集めて一緒に遊んだこともしばしばあったという。病魔に侵されてからもそれは変わらず、 船の中でも養生していた屋敷でも、総司は病人たちと冗談を言い合い笑っていた。これは、総司の生まれもった朗らかで明るい性格が関係しているのかもしれないが、 彼が強がっていたともとれるではないだろうか。一番大事な時に何もできないことを、彼はきっと物凄く悔しがっていただろうと思う。冗談を言い笑っていたが、心の底では 無力な自分を嘆いていたのかもしれない。それを隠すために笑っていたのかもしれない。ずっと新選組の主戦力として戦っていた者にとって、戦いに出られないのは 辛く苦しいことであろう。自分が敬愛する者を守ることが出来なかった、という思いが強かったのではないだろうか。 慶応4年(1868年)5月30日夕方。総司はその短い人生を終えた。享年27歳。敬愛する近藤の死を知らされぬまま、総司は旅立ったのである。 |