土方歳三義豊(ひじかたとしぞう よしとよ)
天保6年(1835年)5月5日、多摩郡石田村の豪農土方家の末息子として父義諄(よしあつ)と母恵津の間に生まれる。6人兄弟の末っ子。幼いころに母を亡くし (歳三が生まれた時すでに父親は他界)、次女ノブが歳三の世話をしていた。 そのノブはのちに佐藤彦五郎と結婚。佐藤家に嫁ぐが、ノブを慕っていた歳三はノブの元へたびたび足を運んでいたのだろう。自然、歳三は彦五郎氏と親しくなった。 彦五郎氏は自宅に道場を構えており、天然理心流三代目宗家の近藤周助に入門していた。周助は息子の勇を連れて出稽古に出かけていたが、この彦五郎氏の道場にも来ていた のだろう。そこで勇と歳三は知り合ったのかもしれない。 11歳の時、歳三は一回目の丁稚奉公に出された。奉公先は「いとう呉服店」だと言われている。土方家は豪農であり、周囲の者から「お大尽」と言われ使用人も常に 数人抱えているほど裕福であった。そんな家で育ったのだから、歳三は自分のやりたいことは何でもやっていたのだろう。さらに歳三は末っ子である。家督を継ぐわけでも なく、幼いころに両親を亡くしたこともあって自由奔放に生きていた。「我慢する」と言う言葉を知らなかったのではないだろうか。 それを示すような逸話が残っている。 ある時、歳三は些細なことで番頭の怒らせてしまった。些細なことと言っても何をしたのかはわからない。注意されたことに対して反抗でもしたのだろうか。 とにかく、歳三は怒られた。番頭に頭をポカリと殴られたらしい。それに怒った歳三は、そのまま店を出て約40里離れた郷里まで夜道を歩いて帰ったという。 小さい頃から自分の信念を曲げない少年だったようだ。 二回目の奉公は17歳の時。場所は大伝馬町の呉服店と言われているようだが、確証はない。この奉公先でも、歳三は問題を起こして店をやめている。 今度は喧嘩ではなく、女性問題だった。奉公先の女性を関係を持ってしまったのである。一度は逃げるように帰ったようだが、すぐに「自分で決着をつける」と店に戻り 自身で事後処理を済ませたようだ。 その後、歳三は奉公に出ることはせず姉・のぶの嫁ぎ先佐藤家に寄宿し、雑用に勤しんでいたという口伝が残っている。 そして、いつ頃のことか詳しいことはわからないが、歳三は家伝薬の「石田散薬」の行商をする傍ら剣術の稽古に勤しむようになった。 薬箱に剣術道具をくくりつけ、行く先々の道場で薬を売りながら剣術を学んでいたのだ。しかし、まだ天然理心流には入門していない。 だが、後の新選組局長近藤勇と知り合ったのはこの頃であるらしい。 歳三が寄宿していた佐藤家(姉のぶの嫁ぎ先)の佐藤彦五郎(日野宿寄場名主)は、勇の養父である近藤周助に師事して天然理心流を学び、自宅に道場を開いていた。 そこには、周助について勇も出稽古に来ていたという。勇と歳三の出会いはここだったのであろう。 その後、安政6年(1859)3月9日に天然理心流に入門。歳三25歳の時である。入門時期については、小島鹿之助が残した書によると17歳と記録されているようだが、 安政5年(1858)の日野八坂神社に奉納された額には歳三の名前がないため、安政6年の方が正しいのであろう。 ちなみに、歳三は免許皆伝には至っていない。目録を貰ったのみである。 文久3年(1863)、歳三は試衛館の仲間たちとともに上洛する。将軍警護のために集められた浪士集団であった。待ちに待ったチャンス。彼らは胸を張って颯爽と 上洛したことだろう。 だが、京都に到着してまもなく、清河八郎が「尊王攘夷」論を説き幕府を裏切ろうとしていることが明らかになる。彼らは江戸に戻るというが、歳三ら近藤一派と 水戸脱藩士の芹沢派はそれに猛反対し、京都に残ることになった。後に斎藤一らも合流して総勢24名、会津藩の援助の下で新選組の前身となる「壬生浪士組」が誕生した。 その後、八月十八日の政変の功績により「新選組」の名を拝受。池田屋事件や禁門の変など様々な場で活躍しその名を世間に知らしめていく。 歳三は新選組の副長として、隊をまとめ局長をサポートしていた。 上洛してからの歳三は、周りの者から恐れられていたようだ。極めて厳格な「局中法度」なるものを作成し(もっとも、局中法度の存在には疑問があるが)、隊規に背いた 者には切腹を命じた。 だが、歳三からしてみればそれは仕方の無いことであっただろう。「新選組」と言っても所詮は浪士集団。言ってしまえば、ただの寄せ集めの集団にすぎないのだ。 農民もいれば商人もいる。脱藩者や浪人が大半であったとは言え、彼らも全く違う国の者である。そんな集団をまとめていくには、甘いことは言ってられない。 そう思ったのではないだろうか。 本当のところはわからないが、それでも彼が隊や局長のことを考えていたのは確かである。歳三は、新選組局長であることを鼻にかけるようになった勇に対して、 あまり良い感情を抱いていなかったようだ。親しい者にそのことを愚痴ったが、それでも最期まで勇の隣で彼をサポートし続けていたのだ。 慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦い勃発。歳三ら新選組は長州薩摩連合軍相手に戦うが惨敗。人数では圧倒的に幕府軍優勢であったが、新しい武器の前に手も足も 出なかったのである。 これによって一気に形勢逆転。歳三たちは京都から去り、江戸へ。さらに北上して蝦夷地――箱館へと進んでいった。 鳥羽伏見の戦いの後、江戸に戻った歳三は「もう槍や刀では戦争というものはできません」と語ったという。さらに、合理的な彼らしい考えで洋装断髪という格好になり、 その後はこの姿で戦いに挑んだ。 五稜郭を占拠し、松前城を攻略。歳三率いる軍隊は順調に歩を進めていた。しかし、榎本軍は各地で敗走。二股口の防御にあたり、17日間守り続けていた土方軍も退路の 遮断の危惧により二股口を捨て五稜郭に戻る。 その間にも官軍は順調に蝦夷地へ侵略。明治2年(1869)5月3日にはとうとう箱館市中を攻撃し始めた。 歳三たちに残された陣は五稜郭と弁天台場のみ。それでも必死に抗戦し続ける歳三たち。弁天台場を守っていたのは新選組であった。 明治2年(1869)5月11日。歳三は弁天台場の救出に行くと言って、出撃しようとした。しかし、そんなことは出来るはずもなかったのである。 一本木関門を通り過ぎようとしたとき、腹部を弾丸が貫通。歳三は乗っていた馬から落ちてそのまま倒れこんでしまう。※) 勇が亡くなってから約一年後、彼は永遠の眠りのついたのである。 土方歳三義豊 享年35歳。 鬼の副長として恐れられた新選組副長。箱館に来てからは赤子が母親を慕うように皆から慕われていたという。 ※)歳三終焉の地については、今のところ「一本木関門」「異国橋付近」の2ヶ所が候補に挙げられている。 |